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大阪の歴史

2009年12月 1日 (火)

難波高津宮の補足と帝都大阪

前回、仁徳天皇の皇居は「難波高津宮」であることを取り上げたが、これは常識のようで意外に盲点になってる。何か吹っ切れないものを感じる。

再度、補足する気になった理由は大したことでもないのだが、高津宮の読みの振り仮名を入れ忘れたので、確認もあってのこと。高津宮(たかつのみや)と読む。

谷町九丁目付近の現状の地名は高津(こうづ)であり、府立高津高校も「こうづ」である。

孝徳天皇の法円坂の難波宮(なにわのみや)の場合は、正式には「難波長柄豊崎宮」で「なにわのながらのとよさきのみや」となっている。仁徳天皇稜も同じように、百舌鳥耳原中稜は「もずのみみはらのちゅうりょう」などとなる。お役所的な言い方であるが、理由は知らない。

「難波長柄豊崎宮」の長柄豊崎は、長柄も豊崎も北区に現存する地名であるが、長い柄のような御崎というほどの意味であろう。つまり、上町台地の半島の岬に近い場所が長柄、豊崎になる。

もうひとつ、帝都つながりなので、以前のブログの去年の記事を再録しておきたい。

ズバリ「帝都大阪」のタイトルだった。

▼近代の夜明け明治維新に、もし「帝都大阪」が実現していたら、江戸を東京と改称したように、大阪でなくなっていたかもしれませんね。
大久保利通の「大阪遷都計画」です。これは大阪に関心のある人たちにはわりに知られた事実ですが、一般的には知られざる歴史と言えると思います。

▼その「大阪遷都」を調べていて、わかったのがNHKテレビの『その時歴史が動いた』で、「幕末ニッポン・幻の遷都計画」として、平成14年5月に放送されていたのですね。完全に見逃していました。惜しいことをしましたが、内容を知りたいよりも、この「大阪遷都計画」があったことを全国放送された事実が重要なので、NHKの番組のHPをリンクしておきます。内容説明を見ると普遍的な事実を述べられています。

NHK「その時歴史が動いた」
▼大阪放送局制作の番組ですが、NHKの番組要約を入れておきます。
第133回
幕末ニッポン・幻の遷都計画
~江戸か大坂か?大久保利通の大改革~
その時:明治元(1868)年10月13日
出来事:明治天皇、江戸城に入城する

 日本の首都は、京都か大坂か、それとも江戸か?幕末の最終局面、都を京都から移そうという、大胆な計画が打ち出された。その行く先は、私たちが常識のように考えている東京(江戸)ではない。大坂であった。
 この大阪遷都案を画策したのは薩摩藩士、大久保利通。大久保の遷都構想は、17歳の若き天皇を、平安朝以来の京都の保守勢力から引き離すことで、新体制のリーダーとしての成長を促すと同時に、天皇親政の新たな近代国家が誕生しようとしていることを、国の内外にアピールするという、画期的なものだった。・・・

 幻に終わった、大久保利通の大坂遷都計画とはどのようなものだったのか?そして大久保はどのようにして、未曾有の大改革となる「東京遷都」を成し遂げていったのか。その背景の知られざるエピソードを紹介しながら。遷都が日本にもたらしたものは何だったのか考える。


◆詳しくはNHKの番組HPをご覧いただくことをおすすめします。偏向著しいNHKがよくできた番組だと思います。最終的に江戸が帝都となる逆転劇なので東京も気持ちよく見れるのでしょう。

2009年11月29日 (日)

仁徳天皇陵

晩秋の風情を訪ねて、仁徳天皇陵に立ち寄ってみた。

昨日の11/28だったが、もう、すっかり冬の装いに。大仙公園の銀杏並木も絶好の見ごろの予想に反して遅かったようで、落葉が進んでいた。

この「仁徳天皇陵」、世界最大の前方後円墳で、世界遺産への登録も取り沙汰されている。しかし、なぜか言い方がいくつもある。宮内庁や地図にはちゃんと「仁徳天皇稜」が正式なものと認定されているのだが、稜内の案内看板には「仁徳天皇百舌鳥耳原中稜」とある。それ以外にも「大仙稜古墳」とか、教科書では仁徳天皇の明記を避ける方向もあるらしくて、記述しても「伝仁徳天皇稜」となっていたりでややこしい。情報なり記載が少ないので、存在はあってももうひとつ理解に乏しいものがある。

古代史に詳しい人でも、そのへんの認識がはっきりしない。「都市の景観と躍動」の掲示板では、突き詰めた結論らしきものもあったのだが、一般的はまったく理解されていない。

我われ大阪人でさえ、なんとなく古墳時代に造られたらしい程度。詳しい人だと河内王朝や河内大王の認識はあっても、これもなんとなく近つ飛鳥の二上山の麓あたりに河内王朝なる権力の存在イメージされるくらいか? これは違う!すべて重要な意味が欠落している!

そう! 応神天皇稜や仁徳天皇稜、あるいは河内王朝の語句にだまされてはいけないのである。もっとも重要なのは皇居の所在地なのだが、河内王朝は正確には難波王朝・大阪王朝あるいは摂津王朝というべきだったのだ。

仁徳天皇は別名「難波天皇」ともいう。堀江の開削とか、けむりの立つのが少ないのを見て、税を免除した話は有名である。あまりお墓ばかりにとらわれては、本質を見失う。

ちなみに「大阪市歌」を以前にも紹介したことがあるのだが、歌詞は『高津宮の昔から、民のかまどに立つけむり、にぎわいまさる大阪市』・・・となっている。

奈良・平城京遷都が710年、京都平安京遷都は794年であるから、高津宮の313年は平城京より400年古いことになる。藤原京など持ち出したところで話にならない古さになる。

痛感するのは、仁徳天皇の高津宮がもう少し知られていたらと想うのだが・・・

いずれにしても、大阪の起源は仁徳天皇の高津宮に規定されるべきである。それくらい大阪市民になじみの天皇である。大阪本願寺(石山本願寺)や豊臣秀吉の大阪城築城で突然に降って湧いたわけではない。市街地の改造はあったにしても歴史の断絶があったなどと考えるのはバカげた空想である。仁徳のお父さんの応神天皇も稜は河内・羽曳野であり、皇居は「大隅の宮」とされている。場所は東淀川区とも上町台地ともされるが定かではない。実在が確かな天皇は応神天皇からになっている。

仁徳天皇の項目をウィキペディアから下記に引用しておこう。

《仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年(257 - 仁徳天皇8711639927))は、日本の第16天皇(在位:仁徳天皇元年13313214 - 87116日(39927日))。

古事記の干支崩年に従えば、応神天皇の崩御が西暦393年、仁徳天皇の崩御が西暦427年となり、その間が在位期間となる。名は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝(『日本書紀』)・難波天皇(『万葉集』)。》

仁徳稜に力が入ってしもて、晩秋の風情があとになってしもた。

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道路を挟んだ南側は大仙公園。道路は御陵通りとなります。

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黄色のジャッケットに帽子のおじさん、案内のボランティアさんで無償らしいです。

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はっきり言おう! 実在する仁徳天皇稜も重要には違いないが、もっと重要なのは「仁徳天皇」そのものである。仁徳天皇の在位は313年~399年で、皇居・宮殿は難波「高津宮」である。法円坂の孝徳天皇の難波宮よりもかなり古いので、宮殿の場所の確証はないらしいが、上町台地には間違いない。現在は府立高津高校の校内に高津宮の碑が建立されている。

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